› 整体あしすと › 佐鳴台・佐鳴湖・浜松の話題 › 御前谷のサクラ

2009年04月08日

御前谷のサクラ

御前谷の排水路沿いのサクラです。
写真は3月30日の写真。

御前谷のサクラ


下は4月2日、「整体 あしすと」の施術を終えた後、
夜桜見物のつもりで見に行ったときの写真。

御前谷のサクラ


そして今日の写真です。
もう散り始めています。
でも10日以上楽しませてくれた今年のサクラ。

御前谷のサクラ


花冷えのおかげでいつも以上に長く楽しませてもらいました。
どうもありがとう。。

御前谷とは…
幕府を開く前の徳川家康さんがいた浜松城城主時代の
悲しい出来事の舞台です。

御前谷のサクラ

医療センターと御前谷排水路とサクラです。

県西部浜松医療センター東側一体を「御前谷」と呼んでいる。 
1579(天正7)年8月29日、徳川家康の正室築山御前は、
岡崎から浜松城の家康の所へと向かった。
途中、この「御前谷」で野中三五郎の介錯のもとに自害して果てた。
そのゆかりの地ということで名付けられた。


徳川家康の正室で、今川義元の姪にあたり、
父親は今川家の重臣、関口氏広親永であった。
天文11年(1542)出生。
彼女は駿河時代には瀬名姫とか瀬名の方と呼ばれていたが
弘治3年(1557)家康と結婚した。
当時16歳であったとも言われているが今川の血を引く
気品のある女性であった。
弘治3年(1557)今川義元が仲人として、
元服して3年目の家康(竹千代)と結婚した。
2年後の永禄2年(1559)に長男信康が、同3年亀姫が生まれ、
岡崎城へ移った。

岡崎城に入った瀬名姫は「築山曲輪」に住むようになった事から
「築山御前」とか「築山殿」と呼ばれるようになった。
築山御前は、家康の生母於大(おだい)の方など
織田支持派の反目もあって、耐えがたい12年間を過ごした。
天生7年(1579)7月16日織田信長は、
安土城に酒井忠次(三河吉田城主)らを呼び、
信長12ケ条の詰問がなされ、二人の殺害を言いつけた。
忠次はその委細を家康に伝える。
そして天正7年(1579)8月25日、
浜松城に移るという名目で築山御前は岡崎城を立ち
一行は佐鳴湖を渡り対岸の小藪(富塚町)へ上陸した。

蜆塚台地の下で「死を賜う」旨を使者から受ける。
死の宣告である。浜松城を目前にして、
悲劇のヒロイン築山御前は38歳の生涯を閉じたのである。
この時、築山御前は、「紅のし、したがさねの上にに黄色いしまぎぬ、白衣の打ちかけ姿」だったと言う。

「怨霊となって子孫にたたる」と言い残して死んだと伝えられる。

http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/tukiyamagozen.htm



そんなことが400年以上前にあったこの地に
咲いてくれたサクラたち。

浜松は戦国時代に時代の中心だったことが
こんなところからも感じることができます。


    記     やす







同じカテゴリー(佐鳴台・佐鳴湖・浜松の話題)の記事
3月27日 さくら通り
3月27日 さくら通り(2019-03-27 23:01)

さくら…佐鳴湖公園
さくら…佐鳴湖公園(2014-03-29 21:57)


※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
御前谷のサクラ
    コメント(0)